この投稿はメルマガにも書きました。
まずはお読みください。↓ ↓ ↓
昨日、劇団「キャラメルボックス」の
俳優教室の卒業公演「ヒトミ」を観てきました。
ストーリーは・・・
ピアノ教師のヒトミが交通事故に遭い、
首の骨を折って全身が麻痺してしまうところから始まります。
そして半年後、大学病院が開発したハーネスという
装置によってもう一度立ち上がっていく物語です。
恋人との別れや信頼、
生きることへの気持ちが上手に表現されています。
その中で、身体が動かないことを彼女は
「死」と位置付けます。
こんな状態なら生きていてもしょうがないのだと。
折しも・・・、
先週、上智大学の生命倫理の授業で
扱ったテーマが
「脳死」「臓器移植」。
ひとりの人間が脳死という状態を迎えたとき、
周囲の人間はどんな価値観と立場から
死を受けとめるのでしょう。
ある2歳の男の子が風邪かと思われ受診したところ、
すぐに大学病院で検査をするように言われました。
ついた病名は「拘束型心筋症」という難病。
脳死と診断され、余命1年と宣告されます。
臓器移植をどうするのかと医師に提案されて
家族は悩み苦しみます。
おばあちゃんは、
「あの世へ行ってから目がなかったらかわいそう」と言い、
お母さんは、まだ身体が温かいうちは死んではいない、と
自分の子どもだけは生き返るのだと信じて
移植に反対します。
お父さんは悩みながらも
こうなる前、息子は警察官になって
正義を守るのだと言っていたことを思い出します。
誰かのためになるのなら
移植に賛成してもいいのではないか?と考え始めるのです。
命の線引きをどこでするのか?
心臓が止まった時点を死とするのか?
それとも誰かの身体の一部として
生きていく命を選ぶのか?
結論はなかなか出ません。
私たちは日常世界に生きています。
でももしもこういう事態になったら・・
どんな選択をするのでしょう。
身体がまったく動かなくなったら
どう生きることを表現していくのか、
死をまっとうすることはどういうことなのかを
偶然にも考えさせられた週末でした。
大学のレポート提出が1ヶ月後に迫ってきます。
このテーマにどんな仮定や定義づけのもと
結論をしたためるのか・・
今から頭を抱え込んでいます。